行動科学研究所 所長
岩田 静治 Ph.D.(いわた せいじ)
そして今年2011年はウサギの年。またもや新しい兎の穴に落ち込み、そこに見える全ての風景は見事なまでに全部さかさま。
* 羽振りの良かった第1フェーズの組織・国家は音を立てて崩壊し、つながりを風化させた個人は続々ホームレスに。
* 怒れる地球の神々は、災害・洪水・地殻変動を起こし、生存のあらゆるレベルで容赦なく私たちの意識変容の促しをかけている。
* ばらばらに個別化して奔走してきた第2フェーズの組織や個人は、久しく忘れていた自然や宇宙の理・目的を思い出すだろうか。そのテロスを読み解き、そこから逆算することで、自らの目的・論理・理由を、謙虚に、真摯に組み立てようとするだろうか。今あらゆる現象の背後で立ち顕れている「第3フェーズ生存形式」への進化岐路に気づくだろうか。第3フェーズのふろしきで、第1と第2フェーズを包み込む勇気と決断の契機をつかむだろうか。
1ドル360円時代は今や1ドル82円前後の為替相場に。何という様変わり!半世紀を超えて夢遊してきた日本も世界も、恐怖と幻想未来という両輪をフル稼働させ、召使いである筈のマインドを主人にたて、仮想現実を構築してきました。このシナリオによる建造物は、エネルギーも基礎の親石も欠如したパワーのない安普請であり、激変する環境に適応できず、あらゆるところで今倒壊しています。時代は新しい構造設計のもとで、持続可能な建造物構築への方向転換を促しています。が、未だ残存する狂気の沙汰は頑固でしぶとく、私も例外なく、その残像波動を自分の内面に感じています。とは言っても、何とか生きていく上での正常さを保つべく、私の暗闇と向かいつつも、72年前に親からいただいた名前「静治」を、今意識して生きています。
「静治よ、お前は、静かにして自らを治め、自由に生きよ」。Be still and look around. Be free.」
こころの深みにある静けさに降り至り、そこでよくよく周りを見渡し、72年と38億年に渡る狂気の暗闇にリンクしているアーキタイプに教えを乞い、かろうじて私自身を治めております。
一方で、生老病死のパラメータのもと、生命の呼吸気配が、時間の有限性をこえた領域に力強く波打つのが感じられます。
「闇に降りて、光に生きよ。
♪歌を忘れたカナリアは、
記憶の闇に降りて行き
気づきの在りかを見いだせば〜
忘れた歌を思い出す。」
そうか。私はここから産まれ出できて、そこに還るのか。十牛図の「人牛倶忘」とか「返本還源」とは、こんな心象の風景なのか。ユーリカ!
長い間背負ってきた課題が、ある不思議な新鮮さと筆舌し難い発見の喜びと共に、こころの内奥で解け始めています。
しわよせ(皺よせ)を伴うしあわせ(幸せ)の日々がワクワク続きます。 Jan.
23, 2011
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1964年の夏。東京で開催されたオリンピックは、日本の高度経済成長物語の開幕ベルでした。有事の時には、アメリカは日本を守って下さいよ、との確約を取りに、佐藤首相(当時)がジョンソン米国大統領(当時)に会いに行きました。経済面で欧米に追いつけ、追い越せ、で全力疾走の日本でした。その時、私は星(青)雲の志を抱き、アメリカ政府国務省で勤務していました。見るもの、聞くもの、触れるもの、全て驚きばかり。不思議の国のアリスでした。
国務省の仕事現場は、カナダ、メキシコを含む北アメリカを、日本からきた専門家とともに研究テーマをもち、同時通訳者として縦横に飛びまわることでした。当時のアメリカは楽天的ムード溢れる、明るくて豊かな国でした。
その獅子奮迅の最中、抗しきれない疑問が立ち上がってきたのです。自分のアイデンティティーが分からなくなってきました。
日本人であるこの私は一体誰なのか?どこから来て、どこへ行くのか?楽園タヒチ島で悩み苦しんだポール・ゴーギャンの心境です。
当時は1ドル360円でした。愛車フォードムスタングも断腸の思いで手放し、妻の順子と長男洋治、そしてニューヨークで誕生した長女マリを連れて、私はドル高のアメリカから、円安の日本へ帰ろう、と決意しました。日本で無性に学び直したかったからです。兎の穴にまっ逆さでした。
当時の日本は安保の是非をめぐって、大学紛争が日常化している日々でした。東大、京大、ハーバード大卒の三教授が同志社大学の新聞学科大学院で教鞭をとられていました。私は鶴見俊輔先生を担当教授として、同志社の大学院に在籍を許されました。そこもまたアリスの新しい兎の穴でした。全てが驚きと感動にあふれた学びと学び外しの場でした。
京都の宝が池国際会議場で、同時通訳者の養成コースを始めました。ダーライラマ法王、三島由紀夫さん、アーノルド・トインビー博士、アービン・トフラーさんなど、多くの著名人を同時通訳する過程で、クタクタに疲れる人と、元気をいっぱいいただく人がいることに気づいていました。でも、それはなぜなのか、分かりませんでした。
御縁が御縁の共時的連鎖を産み、京都ノートルダム女子大、京都産業大学の経営学部教授として、私は大学教授のキャリアに入りました。当時、「20世紀の意味」という名著を書かれた、コロラド大学のケネス・E・ボールディング教授に奇跡のような御縁をいただき、1976年の春期、私はボールディング教授が主宰されていたコロラド大学の行動科学研究所に、客員教授として迎えられました。この頃「3ベクトル理論」が萌芽し始めていました。
私は思い切って二つのチームを組みました。妻と当時よちよち歩きの次女夕紀は私と一緒にコロラドに行く。洋治とマリは日本にいて勉強を続けるプロジェクトでした。家族にとっては、また新しい兎の穴にまっ逆さの、ビクビク、ワクワクの毎日でした。厳寒のボールダーで凍えながらも、私の魂は熱く燃え盛っていました。安定と安全の内海的大学環境からこわごわ抜け出し、ダイナミックで危険に満ちた外海の教育現場の魅力にビクビク、ドキドキ心躍りました。
1984年、日本での大学キャリアを切り上げ、大津の比叡平で立ちあげていた行動科学研究所を主たる生活現場と定めました。同時に、アメリカのいろんな大学・教育機関で教鞭をとり、そこで給料をいただき税金を払い、学生の採点をしはじめました。これをやりたかったのです!コネティカット州立大学、テキサス・ベイラー大学から始まり、大学のはしごを始めました。同時にホンダ技研や富士ゼロックスなど、企業の経営者・スタッフの教育活動も開始しました。人間の行動を科学する、3ベクトル理論の応用展開と、心理学とエネルギー学のハイブリッドの始まりです。またまた新しい兎の穴へまっ逆さの感じでした。1ドルは180円になっていました。
その頃、私には更なる根源的な疑問が立ち上がってきていました。教育とは何か。人は人に何が教えられるのか。自分を、世界を、環境を変える主体とは何か。この設問にこれだ、という答えを未だ見い出せないまま、私は自分の内奥に注意を向け、微かだが確かに存在するビジョンを見ようと全身全霊を集中しました。同時に、その道で探究されている師匠の教えを乞い願い、東奔西走の旅に出ました。
人はひとりだ!人は一人である以上に、ひとりなのだ!それは次なる兎の穴世界でした。ひとりひとりの意識が変容することでのみ世界が変わる、との認知風景の立ち上がりです。いろんな心象風景が去来し始めました。
ひょっとして、人の生活習慣の底に記憶習慣があるのではないか。それは人類が太古38億年にわたり経験してきたあらゆる記憶の集積であり、それが影と光という記号(アーキタイプ)となって、私達ひとりひとりの思考・感情・行動を仕切っているのではないか。それを読み解くことで、人は自分のエッセンスに近づけるのでは!これは極めて個人的な深みの認識であると同時に、人類につながる普遍的なツールでもあり得るのではないか、とのひらめきでした。いや、むしろ、今まで忘れていたものをやっと思い出した、という方が正確でしょうか。私はこれをPEPと名づけました。40数年の紆余曲折の果てにどうやら辿り着いたところです。
今では、1ドル95円前後の円高・ドル安の新しい兎の穴環境で、追いつけ・追い越せの狂騒曲も終わりました。ひとりひとりの美しい「いのち」の感覚を生老病死のパラメーター枠で再設計し、間断なく立ち上がる「もの」と「こと」の日常群生に、未だ藁をもつかむ想いであなにやしをかける、今、ここの私です。
Jan. 1, 2008
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